サリンジャーも基次郎も、きっとよく歩く

 

この季節は決まって心がもやもやする。若さのエネルギーを間に受けて、自分の体なんてぺしゃと潰されてしまう。あちらこちらで事件が巻き起こっていて、自分はそれを垣間みようとしてしまうから、栄養過多でへとへとだ。

これが刺激、なんだろうか。

たしかにそれを求めてしまうから、こうしてまた足を運んでしまうんだろうな。

場外にいるのではあまりにももったいないから。この先の人生で、きっと必要な栄養分なんだろうと思うから。

 

自分は良い映画を観れた、くらいの充実で一日中満腹になってしまうんだ。ゴーストワールドシーモアに近い性質だね、きっと。

今日の自分は、満たされすぎた。大好きな人と連れ立って歩いて。ゆかりの喫茶店で向かい合ってお昼を食べたり、映画を観て眠ってしまったり、もうひとりの大好きと三人で豚汁を囲んだり。ノスタルジーの瞬間に立ち会えたり。

このまま綴じれたら幸せなんだろうなって、いつも思う。いつも思うってことは未だ下降を知らないってことだから、それはそれで希望でもあるけれど。

 

自分はなんて面倒な人間なんだろう。こんな人間が一人前に人間の面してるんだからおもしろいよね。この世界ってけっこう寛容だよね。

The cure のthree imaginary boys しか聴けない情緒。やばいやばい。早いところ脱却しよう。

 

 

帰り道、なんだか遣り切れなくて、吉祥寺の丸善で安い計算用紙を買った。持っていた鉛筆で、ぐちゃぐちゃに通り過ぎる人のシルエットを描いてみた。相変わらず拙いもんだが、心は少し穏やかになった。

けれどそれでは飽き足らず、古書センターで昔の映画雑誌を買って、荻窪邪宗門に雪崩れ込んだ。店にはいつものおばあちゃんと、若い男の客がひとりで居た。なんだか良かった。追跡という映画の女優を模写した。テーブルの上の花と客の痕跡も。途中で入ってきた、アプリで出会って顔を合わせたばかりの男女の会話に辟易してしまった。夜までの時間潰しに勤しんでいるようで、形としては“お互いを知るための時間” ということなんだろうけど、なんだかとってもいやらしく感じた。あの場所は心落ち着かせてくれる理想郷だけど、今日はなんだかうるさく感じてしまった。けど、帰り際におばあちゃんが“これなんだかわからないけどあげる”って、飴をくれた。

 

そのまま電車に乗れなくて、歩いて帰った。荻窪から2時間もかけてたみたい。びっくりだ。

古本屋象のあしが半額セールになってて絵本を買った。人がいなかったから歩きながら歌を大声で歌った。涙が出たから泣いた。おばあちゃんの飴はゆずの味だった。夜になると少し怖い神社に入って、大きく曲がった大木を見上げた。ラーメン屋のめかぶラーメンを半分だけ食べたいと思った。コンビニの前でカップのちゃんぽん春雨を食べた。Canのmother skyを聴きながら歩いた。西邑さんにこの曲の音源を持ってないか連絡を入れた。

 

今日一日で25000歩歩いていた。

 

なんだか行き場のない夜になってしまったなぁ。

 

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