香織
和田香織
これは私の名前ではない。
私が汚職をする時に、登場する人物だ。
ある人から仕事をもらうと、もれなくこの汚職がついてくる。購入した衣類を、一度だけ試着して返品するという作業だ。誰かを傷つけたり搾取しているわけではないから法では捌けないだろうし、グレーゾーンであるとは思う。しかしどうしたって不毛に感じてしまうし、店員さんの目を見て会話をできない。私はこの作業が嫌いだった。
返品が完了した後、店舗控えのレシートの裏に署名を求められる。本名じゃなくていい、と言われていたので私は咄嗟に出てきた"香織"という名を書いた。苗字は罪悪感からなのか、本名を選んだ。和田香織。
それからこの作業を任される時は決まってこの名を書いてしまう。本能的に書きながら思う。誰なんだろう。
いつかどこかの和田香織さんに出会った時、私はきっと鳥肌が立つような気がしている。
surround
最近心を揺さぶられたこと。
小さなことでも、その瞬間が愛おしくて、なるべく多くを刻みつけたい。
そう思って細かなメモをたくさん取っていた10代。それはまるで秘密裏にこの世界に散らばっている記号を、見つけては拾い集めるような、日常的なひとり遊びだった。
あのメモを取らなくなったのは、いつ頃からだっただろう。
『大人はいつも、時間がないと言う』
働く大人と近くで過ごしていて、それはたいていの大人には当てはまる真理だった。それを人ごとのように思い続ければ、自分には訪れないとなんとなく信じていた。
飄々と、軽やかに、自分と外的なすべてのものは対等でありたいと願っていた。
しかし近頃の私は、どうも何かの歯車に組み込まれてしまったらしい。私は私ではない誰かの
時間軸の中で動くよう求められているみたいだ。
それは、とても窮屈です。
それが、働くということなんでしょうか。
小さなsosを、からだが出し始め、抗いもせず堕ちていきそうだった私を、すんでのところですくいとめてくれた人がいる。
その人は私にほつれたヘッドフォンを直してほしいといった。10年も使っていて、スポンジ部分が壊れる度に修理に出していたけれど、ついに型が古くなってしまいもう修理には出せなくなってしまったのだという。
「とにかく良い音だから、聴いてみなよ」
そう言われてヘッドフォンで耳を包んだ。
その人が再生ボタンを押した瞬間、音がわたしのからだに、そのヘッドフォンと同じくらいボロけていたわたしのからだに、流れ込んだ。
聴きなれない立体的な音に、からだ中の細胞が目を覚まして、一斉に立ち上がったようだった。
思えばイヤフォンですらあまり音楽を聴いていない日々だった。大好きだった音楽すら、鑑賞できる状態じゃなかったことに気付かされ、発せられていた小さなsosとやっと対峙することができた。
I feel it coming.
その時わたしの耳に届いた彼と、果たして本当に会う日が来てしまうのだろうか。
千葉は灰色
訪れた場所のイメージに、色をつけてみる。
京都は萌黄色、山吹色、こげ茶の木の色。
千葉は、灰色。灰色の砂利、灰色の海。
涙くん
この閉塞的な日々に、否が応でも自分というものが浮き彫りになってくる。
規則的な毎日がもたらすそれが怖いから、わたしはいつもスケジュール帳を移動と行動で埋めていた。
ひとりでいると自分は、勝手に深く落ちていってしまう。10歳の時にソファに沈んで流した涙を、忘れられない。
それなのにひとりを欲してしまう。誰かと深くつながることが、自分にはできないと諦めてしまう。寂しいに、安心を求めてしまう。
空っぽの家にひとりで帰る毎日。暗い、静かな、冷え冷えとした部屋。心の中でそれがわたしにとっての本当の家の姿だと、ずっと昔に焼き付けてしまったのかもしれない。あたたかさに触れると、自分はここにはいてはいけないと、ハッとして心を許せない。
そんなふうに感じて、最近はよく涙が流れる。ある日彼の前でも涙が出てきて、そうしたら彼はぎゅっと抱きしめてくれた。体を預けることは、温もりを共有することは、こんなにも身体が嬉しいことなんだ。
今日はひとりだったから、どんどん深く落ちていった。空っぽになってしまったから、鞄も持たずに外に出た。当てもなく、川沿いを、住宅街を、坂道を、とことこ歩いた。人の姿に、萎縮してしまう自分も嫌で、なるべく人通りの少なそうな道を選んだ。
ある十字路に、青い膝丈のワンピースを着たショートヘアの女の人が立っていた。すらっとした足をなんてことなく晒し出し、腕には赤ちゃんを抱いていた。外の空気を吸いに、ちょっと出てきたという格好だった。
パッと目が合い、いつもならすぐそらしてしまうところだが、彼女があまりに気持ちの良い雰囲気だったから、そのまますこし顔を見た。向こうがこちらを見る目もどこか好意的な気がした。あと一息で、こんにちはと話しかけてしまっていたかもしれないくらい、自然な空気を纏っていた。
すれ違いざまに、彼女が歌を歌っているのに気がついた。赤ちゃんをあやしていたのだろう。
そのメロディに、聴き覚えがあった。彼女から遠くなりながら、小さく続きを口ずさんだ。
「…この〜世はかなしいことだらけ…」
あ、坂本九だ。続きを思い出す。
「涙くんさよなら」
その歌は、そのすれ違いは、しけしけとした夕刻の散歩を、軽やかに慰めてくれた。
favorite hates
茄子の味噌炒めをおかずに、白いご飯とビールを一缶開けて晩ご飯とした。
溝口健二の『夜の女』をパソコンで観ながら。
食事が終わって、まだ映画は続いていたから、電気を消してそのまま続けた。
開け放っていた窓からは、夏の夜の風が吹いた。
わたしがこの風をしっかりと意識的に好きだと気付いたのは、一人暮らしを始めてからだったと思う。
外に出たくなった。
映画が終わると、部屋着のショートパンツをロングスカートで覆い、カーディガンを羽織り、ペタペタと鳴るタイの道端で買ってきた安いサンダルをひっかけて家を出た。
久し振りに一人で歩く夜の街。ユーレイごっこの気分が蘇った。
人通りは少なく、なんだか街自体の重荷が減って、身軽になったように見えた。
ペタペタペタ。風の抜ける夜の住宅街を、フラフラと歩いた。
お酒でも買おうかと思ったけれど、心の声はその時、甘いものを欲していた。
バナナミルクの棒付きアイスを買った。
アイスを食べ切るまでを帰り道とするように、すこし遠回りして家まで歩いた。
バナナ、そういえば。
Sという特別な女の子がいる。彼女がうちに遊びに来た夜があった。ふたりでオムライスを作っている時に彼女のした話を、そのバナナの味でふと思い出した。
彼女は小さい頃、バナナが嫌いだった。ひと口だって食べれなかった。彼女はずっとバナナ嫌いとして、20年間生きてきた。しかし最近になって、バナナが食べられるようになった自分に気がついてしまった。彼女はそれが寂しいと言った。バナナは彼女にとって大切な、嫌いな食べ物だったのだ。
その感覚、よく分かった。彼女におけるバナナは、私におけるチョコレートであった。
私は小さい頃からチョコレートの濃厚に甘いのが苦手で、自ら好んでチョコレートを求めることはまずなかった。
そのことは同世代の女子達からすると物珍しいようで、話すと大抵驚かれたり、損な人生だと同情された。
それがどうだ。チョコレートというのは誰かの好意でいただく機会が少なくない。いつからか相手に悪いからリハビリ的に、少しだけ食べるよう心がけ始めた。そして今やだんだんと克服の兆候が見られてきたのだ。まだ好んで食べるほどではないが、食べれないことはない、という状態である。
便宜的に食べれるようになってしまったチョコレート。社会的チョコレート。
彼女のバナナ、私のチョコレート。
手放したくない、キライの話。
ユーレイヤーライ
ここ三日間、店員さん以外の人と言葉を交わさなかった。
発した言葉は、
「84円切手ください。」
「袋いらないです。」
「ウィンナーコーヒーを。」
「ごちそうさまです。」
「ありがとうございます。」
こんなもんだった。
しかし、それ以外の時間が静かだったわけではなかった。私はずっと私と話していた。
心の中か、ひとり言として言葉を発していたかもわからないほど、ずっと話している。
ここしばらくそういえば自分に構ってあげられていなかったなと思った。
久し振りに自分がそばにいる感覚を思い出した。
この三日間の自分というのは、まるでユーレイだった。
存在しているということは、相対的にしかわからない。呼応する反応を認めて初めてその存在が立ち上がるのだ。
つまり外との接触を拒めば拒むだけ、自分の影が見えなくなってゆく。勝手にやってるユーレイごっこを止めに入る者はいない。終いには今の自分がユーレイでないと誰が断言できよう、と妙な居直りの心持ちで、ドンと構えてみたりしている。
しかしてユーレイでいることは、とても気楽なのだった。
誰にも迷惑をかけず、謝ることも傷つけることもしなくて済む。ただただ人間の姿を羨みながらドロドロと歩いてみたりしている。絶対的傍観者、蚊帳の外、対岸の火事。触れることがないから、何にも責任を負わずにいられる。
たまには良いなと思った。こういう無責任な時間は、時に必要なのだと思う。自分はいつの間にかけっこう他者の目を気にしていたことに気がつく。他者と言っても関わりを持った人たちのことだけど。その目を通して自分を見るから、どこか自分を自分で肯定できないでいたのではなかろうか。他人の尺度で自分を測ってみては、なんだか取るに足らない人間だというような悲観的観測ばかりしてしまっていた。
ユーレイでも電車に乗れるし、買い物はできるし、ウィンナーコーヒーを飲める。人間と何が違うんだって、自意識の違いだけなんだろう。人間でいる限り、道徳というものが存在し、真っ当であれよという声が追ってくる。ユーレイでいると、自分は自分と一対一でいられる。ひとり遊びを咎める声も聞こえない。
ああ、これはきっと自由。
ユーレイ良い。ユーレイ万歳。ユーレイ続け。
性差
自分に女という機能が備わっていることが、時に悲しく、不必要に感じる。
小学生の頃、自分の体は平坦なままであれと願ったし、見ず知らずの人間から女であるという判断だけで触られたり、撮られたり、そういうことは懲り懲りだった。被害者の意識を持たねばならないことも、嫌だった。
高校生くらいになると諦観というものを得て、スカートの中を撮られたり電車の中で触られたりすることなんかはその日の夜には忘れた。別に減るもんじゃないし、構わないと思った。
目があった。相手の歩調が緩まる。すれ違う。背後に意識を持つと、ついてくるのがわかる。急に止まってみたり、角を曲がってみたりして、本当についてきているのか確かめる。面倒は嫌なので、気付き次第、巻く。人の姿が多い街中の場合、これは容易だ。
この間の井の頭公園の男もいつも通り、巻いて仕舞えばよかった。その時はどうしようもなく投げやりな気持ちでいたから、そうはしなかった。わたしは暇そうな素振りをしながら歩いた。彼は声をかけてきた。あー、と思って立ち止まることなくそのまま会話を続けた。年も近くて、ふわふわした喋り方をする人だった。やたらとベンチに座りたがっていた。わたしは抵抗する気力もなく、そのままついていった。辺りも暗くなってきて、人気の少ない、池に面したベンチに座った。恋愛の話を聞かれたので、今好きなひとと距離を保っている状態だ、悲しい、難しい。という感情をそのまま伝えた。彼は自分は相談に乗るのが得意と言っていた。たしかに、親身になって聞いてくれた。
見ず知らずの人といきなり深い話をしたりするのは、けっこう好きだ。自分も知らない、ありのまま心の内を吐き出せたりする。ただ、彼はただの気の良い個人相談所なんかではなかった。そりゃそうだよな。
ベンチの真ん中にある手すりを跨ぎたいと言った。ひとり分の空間の席にふたりで詰めて座りたいと言い出した。いや、無理があるよ、と思ったけど、彼は詰めてきた。肩を寄せてきた。手を握ってきた。しばらくすると彼はその手を彼の股間の上に置いた。熱を感じた。彼は手にも汗をかいていた。離そうとしたけれど、上から力を入れて抑えられていた。口では軽妙な会話を平然と続けていた。気持ちが悪い、と感じてしまった。ベンチに座った時点で、共犯関係だったはずなのに、わたしはひどい。心の中に被害者意識が芽生え始めてしまった。
わたしは大好きな彼に助けを求めたいだけだった。連絡を入れたら、ここに来てくれるかなと思っただけだった。心の中でどこかこの状況を望んでいたんだ。最悪だ。わたしは彼にとっても、目の前のこの人にとっても、中途半端に都合の良い人間だ。女という肉体を利用してつなぎとめたり、被害者になってみたりしている。なんて滑稽な姿だろう。
昨日、スカイツリーでフェイスペイントのイベントがあった。わたしはフェイスペインターとなって子供たちの顔におばけやらかぼちゃやらを描きまくった。わたしの描く絵はなんだか気が抜けていて、子供たちにハテナマークを浮かばせてしまったかも知れないが、けっこう喜んでくれて嬉しかった。
三十代くらいの男性がひとりでやってきた。わたしの席に座って、手に絵を描いてほしいと。彼の目的はなんだろう。このイベントに興味があるのか、スカイツリーのありとあるイベントを制覇しようと試みている人なのか、フェイスペイントに興味があるのか。
わたしは彼の右手を自分の左手で支えながら、おばけの絵を描いていった。固く、全く動かない彼の手は、子供たちのはちきれそうなぴちぴち肌とも、自分の良く知った二十代の肌とも違う。少し乾燥していて皺が刻まれていて、ごつごつとしていて、血管が太く浮き出ていた。
わたしは自分の中にあたたかいものがこみ上げるのを感じた。その時、女としての機能を肯定できた。こうして触れ合うことで、彼の一部が満たされたりして、すこし良い気分にすることができるなら、いくらでもするよ、と思った。勝手な思い違いかも知れない。でもあの時彼のおなかも、あたたかくなっていたのではないだろうか、と思ってしまった。
アイドルの握手会にどこか潔白さを感じるのは、もしかするとそれは一方的な愛に見えて実は両方向の力が働いているからなのかも知れない。わたしにアイドルの機能は無いが、女としての機能があの場に温もりを与えていたとしたら、わたしは女であることに感謝せざるを得ない、と思った。
性差というものが存在するのは、補う行為の愛しさを、確認させるためなのかも知れない。