ユーレイヤーライ
ここ三日間、店員さん以外の人と言葉を交わさなかった。
発した言葉は、
「84円切手ください。」
「袋いらないです。」
「ウィンナーコーヒーを。」
「ごちそうさまです。」
「ありがとうございます。」
こんなもんだった。
しかし、それ以外の時間が静かだったわけではなかった。私はずっと私と話していた。
心の中か、ひとり言として言葉を発していたかもわからないほど、ずっと話している。
ここしばらくそういえば自分に構ってあげられていなかったなと思った。
久し振りに自分がそばにいる感覚を思い出した。
この三日間の自分というのは、まるでユーレイだった。
存在しているということは、相対的にしかわからない。呼応する反応を認めて初めてその存在が立ち上がるのだ。
つまり外との接触を拒めば拒むだけ、自分の影が見えなくなってゆく。勝手にやってるユーレイごっこを止めに入る者はいない。終いには今の自分がユーレイでないと誰が断言できよう、と妙な居直りの心持ちで、ドンと構えてみたりしている。
しかしてユーレイでいることは、とても気楽なのだった。
誰にも迷惑をかけず、謝ることも傷つけることもしなくて済む。ただただ人間の姿を羨みながらドロドロと歩いてみたりしている。絶対的傍観者、蚊帳の外、対岸の火事。触れることがないから、何にも責任を負わずにいられる。
たまには良いなと思った。こういう無責任な時間は、時に必要なのだと思う。自分はいつの間にかけっこう他者の目を気にしていたことに気がつく。他者と言っても関わりを持った人たちのことだけど。その目を通して自分を見るから、どこか自分を自分で肯定できないでいたのではなかろうか。他人の尺度で自分を測ってみては、なんだか取るに足らない人間だというような悲観的観測ばかりしてしまっていた。
ユーレイでも電車に乗れるし、買い物はできるし、ウィンナーコーヒーを飲める。人間と何が違うんだって、自意識の違いだけなんだろう。人間でいる限り、道徳というものが存在し、真っ当であれよという声が追ってくる。ユーレイでいると、自分は自分と一対一でいられる。ひとり遊びを咎める声も聞こえない。
ああ、これはきっと自由。
ユーレイ良い。ユーレイ万歳。ユーレイ続け。