ひとり/ふたり

 

 

あ、あの人私の方を見ているな

ということを誰かの目を見ながら思った時、その瞬間ふたりは、見つめ合っている。

 

そのことに気がついた保育園時代、両想いという奇跡をすこし身近に感じた。案外認識するより前に、その状態は訪れていたりするのかも知れない、ということをぼんやり発覚した。

 

確かに、両想いの瞬間というのは、もっと日常的に生まれては消えているように思う。無意識レベルで、言葉になる前の感情が、あちこちで実は成就している。目に見えない不確かな期待を、確かなものにしたいから人は、言葉を使って、関係性に名前をつける。

 

彼女、彼氏、妻、夫、恋人、愛人。

 

こうやって名付けることで、自分を縛り、相手を縛り、契約という安心を獲得する。

 

わたしは、わたしという人間以外、何にもなれないと思う。彼女ってひとも、恋人ってひとも、この世界にはもうそれはそれは大量に存在するわけだけど、それは社会というものがあっての名前で、自分のアイデンティティはひとつも要さない。へー、としか思わない。

 

とか言って、信じて、壊れる時ののダメージが怖いんだ。

結局は弱さと自衛。

 

それほどまでに、ひとりで生きてきてしまった人生を、愛でるわけでも、悲しむわけでもなく、抱いたまま、これからも生きる。

 

 

 

とうめい

 

 

涙と、愛というものは、強く結びついている。

すべてに愛で応えようとすると、毎日がぼろぼろになる。

止まらない涙は、溢れた愛の副産物なのかも知れない。

涙は自分の頬を伝うから、優しくなぞってくれるから、その感覚につい身を委ねてしまう。

 

 

未来に期待したりするほど、私は無知に生きてきてはいない。

この涙は過去への愛撫ではなくて、今の自分の結晶であると信じたい。

 

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音のない会話

 

 

もう二年半も前のことだ。

ようやく陽射しに温度が感じられるようになった季節。代官山。平日。

軽やかなビジネス人たちがまばらに通勤する時間帯。

わたしはカフェの開店準備をしながら、ふと大きな窓ガラスの外を見た。

 

すらっとした二人の女性が、坂になっている通りの道をとんとん下りながら、話に花を咲かせていた。

表情も豊かに、軽やかに歩いていた。

 

すべてが、手話による会話だった。

 

朝の光がきらきらと道に反射し、スクリーンのようなガラス越しにうつるふたりを、なぜだか時折思い出す。

シン・ニンゲン

 

 

誕生日も、新年も、新学期も、新年号も、本当は何も変わらない。だって日々は地続きだ。

 

ただ、飛び越える意識を持つかどうか。

something newを求めるか否か。

 

vision を持ちなさい” 

下北沢の魔女は中学生の私にそう言った。10年後、20年後の自分がどのようにありたいのかを考えなさいと。真っ直ぐに引っ張られる力を目線の遠く先に据えること。目の前のすったもんだに空費されては、霞んで見えにくくなってしまうから。

 

どこだ。

今の自分はどこにいる。

四方を覆う靄の中、微かな光に目を凝らす。

どこだ、どこだ。

どこに向かうか。

Remember why you are standing here.

塞きとめることを恐れない。

歪みを淀みを臆さない。

 

 

やわらかいものを守っていたい

陰を他人事にしたくない

愛を惜しまない人間でいたい

緑喪失記

 

あまりにも、突然だった。

 

こういうことがあると、何かに安心を覚えることがほんとうにこわくなる。

その度、心を空っぽにする。

空っぽのまんま、涙が流れる。流れるがまま、抑えることができない。

 

日々の無意識下に確かにあった平穏な一部が、目の前で、一瞬で、覆されてしまった。

 

無い、ことでようやく有ったことを認識する。遅い。いつも遅い。

いや、気がついてはいた。毎日あの緑をそれともなしに眺めては、この場所の幸福感に満足していた。

ただ、無くなってみないと本当の意味でその輪郭を意識しようとは思っていないのだと知った。いかに自分の一部が、それによって支えられていたのか。存在が有るうちにそれを認識するには、私はまだ想像力が乏しいってことなのかも知れない。

 

午前中、微かに感じていた地面の揺れは、あの顛末を予期させるにはあまりにも穏やかで、けれど確かに不穏な違和感をもたらしていた。

 

弱い、この世界を生きるには、生きてゆくにはあまりにも脆い。

この突然の喪失に、涙が止まらなくなったって、私は電車に乗らなきゃいけない。次の目的地に行かなくてはいけない。

涙を隠し、堪え忍ぶことは必要なのだろうか。

痛みを感じることは、足手まといに終着してしまうのか。

 

自分は臓器を提供するクローンでは無い。

確かなことなんてそれくらいだ。

 

 

 

 

ふたごの気配

 

子どものふたごが、ふたり一緒にベビーカーから顔を出していたり、同じ服を着て横並びに歩いていたりする光景は良く目にするけれど、年齢層が上がるにつれ、ふたごが揃って街を歩く姿を見かける頻度は少ない。

 

中華街で柱にもたれて肉まんを食べていた。

 

するとすぐ後ろから、少ししわがれた男性の声が聞こえた。

 

「ここすごい並んでるなぁ。なんの店だ?」

「あぁ、小籠包の店だよ」

 

応えた声に違和感を感じた。その一つ前に発せられた声とほとんど同じだった。

振り返る間もなく、ソフトクリームを舐める、グレーヘアの男性の顔が目に飛び込んた。そして流れるように、もひとつ同じ顔。

先ほどの声の違和感がすっと解決した。

 

ぴったんこの、背丈やすらっとした体格は、彼らがふたごであるれっきとした証拠だが、なんたってそれを確信したのは、ふたりの着ていたシャツを見たときだった。

ひとりは5cm幅、もうひとりはギンガムの、チェックのシャツを着ていた。色はどちらもうすい赤色だった。

わざわざ口裏合わせた訳もなかろう。朝、服を選ぶ瞬間に、なんとなく通じてしまったのだろうか。

ソフトクリームを舐めていた彼はギンガムのシャツをイン。もうひとりのキャップを被った彼は5cm幅のチェックシャツをアウト。

その着こなしの絶妙な違いが、ふたりの歩んできた日々の違いを表しているように感じた。

それは無論、当たり前のことなんだけれど、着るものまで一緒くたにまとめられてしまう幼きふたごたちの面影を見たようで、なんだか不思議な気持ちになった。

 

にしても、ソフトクリームをぺろぺろ舐めながら連れ立って歩くおじさんてのはかわいげがあるもんだったなあ。

深夜のブランコ、真夏の熱帯魚

 

夏の夜が恋しい。

あの光るうちわをはやく携えたい。

白いワンピースに空気を孕ませて、軽やかに夜道を歩きたい。

暑さでどうにも寝付けない夜、ブランコの揺れに身を預けたい。

 

ちゃぶ台に上がった冷やし中華を愛でたい。

小さな氷を舐めたまま畳に寝転がりたい。

夕暮れの天気雨を体育座りで眺めたい。

夜の冒険に出かけて、銭湯で汗を流したい。

缶ビールを開けて、並んで歩きながら片手で飲みたい。

 

新宿  陽射しを避けて逃げ込んだ地下街で、熱帯魚に涼を感じたい。