帰れない二人
彼は動物的で、詩的で、あたたかな血の通う人。
わたしにとっては、優しく拾って包んでくれるスーパーマンでもあり、同じ星からやってきた同胞のような気持ちも抱く。
彼とは異性である以前に、人間として、出会えたことがとても嬉しい。
午前四時に家を出て、玄関前の冷たい石畳の上で迎えた白い朝。あの2時間の、トップスピードの冒険に、恋の始まりを感じてしまうのは必至だったのかも知れない。
だけど、困ったことに、彼には事情がある。
わたしにまっすぐになれない事情。
わたしも、その壁の前に困ってしまっている。
いつもの逃走癖が、わたしを後押しし始めている。
横浜で彼に文章を書いた。書いているうちに気持ちがまとまって、少し考えが変わったので、この文章を彼に送ることは無いだろう。だからせめてここに一部を留めておく。
“ところが、ここ山下公園 氷川丸の船上で、私は気づいてしまいました。
私はあなたにとって、流れていくべき存在なのかな、と。
あなたと彼女と、ふたりの過ごした長い長い時間の前に、私は無力だ。
あなたはきっと、街で、部屋で、夢で、あらゆる場所に彼女の面影を見る。
時に私との間にも。
私はそれを想像したら、とても悲しい。
私は弱い人間だから、それを感じるとすぐにぺしゃんこになってしまうと思う。
だけど、あなたたちのその時間を、消してほしいとは思いません。
美しいものは、抱いたままでいてほしい。
ただ、今のあなたと恋愛関係を築くのが怖い。
これが私の、ありのままの気持ちです。”
中華街の雑踏の中、涙が出た。顔は歪んでいたと思う。裏路地に入って、壁にもたれて泣いていたら、中華料理屋の白いエプロンをつけた料理人が数人、脇を通って行った。彼らはキビキビを緩ませることなく、ちらと私の顔を見て、そのまま通り過ぎた。その淡白なリアクションはなんだかありがたかった。具材のたくさん入った豚まんを食べながら、もう少し泣いた。
でも、涙を流して、気がついた。
わたしは、ハッピーでいたい。
過去に涙を流すことは、いくらだってできてしまう。けれど、いまほしいのはそれじゃない。前に、前に行く力。いまだってすぐ過去になってしまうんだ。過去はやがて大過去になって、きれいな思い出になってくれる。
だから、彼にとってわたしは前に進む力になりたい、と思った。そのためには、毅然として、わたしはわたしの人生をハッピーに過ごす努力をする。わたしができるのは、そういうことじゃないのかな、と思った。
もうすぐ五月。一年のうちで一番好きな時期。爽やかに、軽やかに、伸びていくことは、きっと難しくない。